津和野 城と歴史2012.05.14登城津和野が雑誌の特集で「山陰の小京都」と紹介されて有名になったのは 70年代。 もうずいぶん前のことである。 森鷗外の生まれた城下町、殿町通りの家並と鯉の泳ぐ掘割、和紙の里そしてSLやまぐち号。 当時 アンノン族という若い女性の人気を集めた町である。 観光客は今も当時と同じコースを散策して心を癒されて帰る。 津和野には太鼓谷稲荷神社があり近隣の人々の信仰を集めている。 安永2年(1773年)に津和野藩主7代亀井矩貞(のりさだ)が津和野藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するために、津和野城の表鬼門にあたる東北端の太皷谷の峰に、京都の伏見稲荷大社から勧進したものである。 当初は 津和野城の域内にあって 住民は参拝できなかった。 明治維新後 住民に開放され 現代では日本5大稲荷の一つに数えられている。 津和野城は 津和野の町を見下ろす373mの山の頂にあった。 津和野城の歴史は遠く鎌倉時代に遡る。文永弘安の元寇(1274年・1281年)を受け、鎌倉幕府は西石見の海岸防衛を吉見頼行(よりゆき)に命じた。 弘安5年(1282)能登から入部した頼行によって永仁3年(1295)築城が始められた。 以後吉見氏は14代319年間、城山山脈の諸所に曲輪・堀切・竪堀・横堀などを構築して堅固な中世山城を築いた。 中世山城は一本松城あるいは三本松城と呼ばれた。 天文23年(1554) 大内氏・陶氏・益田氏その他の大軍に山麓を包囲されながらも、4月から8月までの100余日の籠城戦に耐えた。(三本松城の役) 吉見氏は関ヶ原合戦で毛利氏とともに西軍として戦い、敗れて萩へ退転した。 慶長6年(1601)初代津和野藩主として入部した坂崎出羽守直盛はわずか16年の治領の間に 津和野の町を見下ろす比高200mの城山山頂を掘削して壮大な石垣を設け三重の天守を有する近世山城へと大改装した。 元和2年「千姫事件」で坂崎出羽守が自刃したあと元和3年(1617)因州鹿野(しかの)から亀井家二代亀井政矩(まさのり)が津和野藩主として入城した。 それから255年間、亀井氏が11代にわたって居城とした。 明治6年(1873)の「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」(廃城令)により 商人三上喜左衛門に払い下げられ 1874年解体に着手された。 今では石垣が残るのみ 市街地から山上の本丸石垣が見える。 城跡は リフトを使えば楽に登れるのだが 山城の比高さを体で感じるために 中国遊歩道を歩いてみた。 登り始めて10分ほどでリフトの下をくぐると中世山城の郭跡の案内がある。 遊歩道からそれて藪の中を進むとそれらしき削平地に出る。10分ほどで道に戻って少し登ると出丸跡に達する。 この出丸は 慶長5年(1600)吉見氏に代わり津和野に入部した坂崎出羽守直盛が津和野城改築の時に築いたもので、築城の指揮を直盛の弟で家老浮田織部がとったことから、別名「織部丸」とも言われている。<中略> 出丸あたりは東西約18m、南北約44.5mあり、門を入ると右に番所があり、石垣に沿って塀がめぐらされていた。 また出丸から本丸東門までの距離は約244mである。 (現地説明版より) 出丸からは 津和野の北側と青葉山が望める。 昔 親父と一緒に リフトで登ってここまで来たことを思い出す。 あの時は ここからすぐ引き返してしまったのだが 織部丸から狭い尾根道を10分も歩くと本丸東門跡に達する。 ここは 坂崎氏以後亀山氏の代には大手門となっていたところである。 本丸は海抜367メートル、近世の絵図面などによると本丸を中心に城門六、櫓が十四あった。 東門を入って右手に見える石垣が3段になっている、これは三段櫓の跡である。 左手の上方に天守台がある かつては三層の天守閣があった。 天守閣は貞享3年(1686)、落雷のため焼失してからついに建つことがなかった。 天守台の奥に太鼓櫓がある。ここは天守台より高くなっている。 さらに高い郭を三十間台と言う。 眼下はるかに津和野の街並みが見える。天空の城である。 5月と言うのに風が冷たくて肌寒いが それだけでなく感動して身体が震える。 本丸を北から南へ抜けて下り坂に入る。 吉見氏の築いた中世山城の南出丸跡を過ぎ 竪堀を越える。 津和野城は近世山城の跡と中世山城の遺構の両方がよく残っている。 やがて 中荒城跡の案内に出合い 道をそれて山中に分け入る。 たったひとり藪の中の細い道を進む、心細い。 熊生息地のかんばんがあった。でないだろうか。 歩くうち城跡にたどり着いた。 吉見氏初代頼行公の永仁3年(1295)縄張りによるもので、見張りのよくきく鷲原八幡宮の山上突端に築かれ6段の郭の下周囲を東南→南→西→北方向に空堀が取り巻くように掘削され、その空堀から18本の竪堀が放射状に掘り下げられている。 中世の砦として、ほぼ完全な姿で残されている。 (現地案内版より) 藪の中で あまりはっきりとは分からなかったが 郭跡は確認できた。 遊歩道まで来た道を戻り城山から南麓の鷲原八幡宮へ下りたった。 八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)馬場は 永禄11年(1566)吉見氏により造られたもので 日本で唯一当時のままの姿を残しているという。 ジャンル別一覧
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